ただいまよりこどもメディアラボを始めます。こどもメディラボはこどもとメディアの関係を総合的に考え、新しい価値を生みだすおとなの学び舎です。第3回目は「こどもとえほん」をテーマに絵本作家の tupera tupera の 亀山 達矢 さんをお迎えしました。tupera tupera さんの大ファンなので本日はとても緊張しています。
こんにちは。よろしくお願いします。道に迷って、大幅遅刻してしまいました。ちがうサンマルクカフェに行ってしまいまして。(会場のメディアラボがサンマルクカフェの裏だったので)
私たちもサンマルクカフェがこのあたりに2カ所あるとは知りませんでした。
すごい近い距離にサンマルクカフェが2カ所あるんですよ。
それでね、もうサンマルク違いして。
サンマルクカフェ、大繁盛ですね。
そうですね。ずっと違うサンマルクカフェ近辺をウロウロしていたんですけど、今日、みなさんといろいろお話しできることをうれしく思います。2014年のワークショップコレクションでは、NHK Eテレで放送している「ノージーのひらめき工房」のワークショップを開催しまして、それが初めての出会いでしたね。その直後にこのようなお話をいただいて、なんか運命的なものを感じて。
いや、私はすぐにお願いしようと思っていましたよ。
ありがとうございます。今日のテーマは絵本ということですが、僕は、絵本づくり以外にもいろんな活動をしています。絵本が主な軸にはあるんですけど、ワークショップや工作、おもちゃを作ったり、服飾系の商品や広告系のイラスト、CDジャケットのアートワーク、演劇の演出や舞台美術をやったり、テレビ番組のアートディレクションやったり。なんだかもう何者だかよくわかんないんですね。
もともと絵本をつくろうと思っていたわけではないんですよね?
うん。絵本は全然。子どものころに絵本を1冊も読んでないんですよ。まぁ、1冊も読んでないは言い過ぎた。盛った、盛った。2冊くらいは記憶しているかも。
大して変わらないですね(笑)
(笑) 加古里子さんの『海』と、渡辺茂男さん・山本忠敬さんの『しょうぼうじどうしゃじぷた』しか読んでないって言いきってるんですけど、実際はきっといっぱい読んでますね(笑)
読んでいるんですね。
ただ、興味はなかったんですね。はじめは雑貨を作る仕事から始めたんですけど、「絵本とかむいているんじゃない?」と言ってくれる方がいて、なんとなく始めた。今も何となくやっている。だから、さっき絵本作家のって紹介されましたけど、もう何でもいいやと思って、媒体によって任せているんです。イラストレーターとか。
名刺にはなんて書いてありましたっけ?
書いてないですね。
書いてない?
ええ。
じゃあ余計な紹介の仕方しましたね。
いや、いいんです。いろんなとこに任せているんですよ。だからなんでもいいんです。
ゆるいですよね。
tuperatupera のはじまり
今日は絵本を見ていただきながら、それにまつわるお話をさせていただきたい、と思っております。何か質問あったらその都度言っていただいてもいいですし、野次とかも大歓迎です。
野次は飛ばせないですよね、ふつう。
もう泣いて帰っちゃうかもしれないですけどね。とりあえずいきましょうか。
よろしくお願いいたします。
というわけで、僕の最初の絵本からいきましょうか。子どものころ絵を描くのが好きだったんです。小学校1年生の時に、図工の授業中に絵を描いて、最後に提出するときに水をこぼして絵を汚しちゃったんです。しかたがないので、ばーってふいて提出したんです。そうしたら、三重県で一等賞になった。津市の美術館のいいところに飾られちゃって。今見ると、結構いい絵なんです。クレヨンで描いてあって、グレー1色で。グレーの絵なんだけど、中からいろんな色がでているような雰囲気で。
幻想的なんですか。
うん。なんかいい絵なんですよ。賞を取ったら、親や親戚が大騒ぎなんです。「やばい、身内から才能出ちゃった」って。だから、犯罪を犯してしまった気持ちになっちゃったんです。「実は筆洗いの水をこぼした・・・・」とは親にも先生にも言えなくて。「うわーやっちゃった」と思っていたら油絵教室に放り込まれたんです。すごく高い油絵セットまで買ってもらって。それで4年間ぐらいずっと油絵描いてました。
へぇー。小学生の時ですよね?
小学校1年から4年まで油絵。
そこで油絵教室を選ぶというのはおもしろいですよね。
まぁ近くに油絵教室があったので。
たまたま。
そうたまたま。でもなんだかつまんなくて小4でやめたんですけど、その当時の4年間で描いた絵が実家にいっぱい飾ってあって。それが素晴らしい。
それすごい高く売れるんじゃないですか。
売れないですよ(笑) そのあとは、ずっと絵には興味なかった。美大に行きたいって思ったのも、ちょっと不純な気持ちで。僕は、ものすごく厳しい男子校に通っていたんです。頭髪検査とか学ランチェックがあって。でも、卒業して3年たったら、森英恵デザインのブレザーになって、共学になったんですよ。共学になった後に、西野カナさんというアーティストがでて、テレビで男と女のラブラブチョメチョメを歌うわけです。その時になんかちくしょうみたいなね。
自分の青春とまったく違う?
そう! 今年の甲子園では、その母校が決勝まで行ったんですよ。アルプスの楽しそうな男女がテレビに映るたびに、怒りがこみあげてくる。(笑) でも、さすがに、応援しましたね。もう甲子園に飛んでこうかと思うくらい。そういうこともあって、無くした青春を大学で取り戻さなきゃいけないという強い気持ちで美大に憧れました。アートという名のものに、男と女が楽しそうにしている姿を思い描いたんです。
不純じゃないですか!
そう。普通の大学より憧れました。それで、美大に行きました。そして美大で毎日お酒を飲んで。
奥様ともその過程で…。
浪人中にね。でも美大もそう簡単なもんじゃない。二浪してようやく入ったんです。
そこで出会って最高の青春を!
もう全身全霊で、お酒飲んで遊んでました。もう楽しくてしょうがなかったですね。
毎日パラダイス?
パラダイス。アート最高。それで26歳くらいまで、就職もせずにフラフラしてたんです。
どうやって生きてたんですか?
日雇いのバイトとかしてました。イタリア料理屋でアルバイトしてクビになったり。
なんクビになったんですか?
わかんない。そこを通るたびにこの野郎と思ったんですけど、つぶれました。それで、イタリアに留学しようと思って、イタリアに行って3ヶ月で帰ってきました。
なぜ?イタリアからも追い出された?
やっぱり日本が楽しいって思ったんです。そうこうしているうちに相方の中川がファッションの小物をつくる仕事を始めました。僕の描いていた絵が何となくかわいいということで、それをパッチワークして、ショップにおろしながらお小遣い稼ごうかくらいな感じで活動を始めました。
それがその後の人生を大きく変えるきっかけとなったわけですよね。
うん。tupera tupera っていう名前ではじめました。1万回くらい、どういう意味ですかって言われるんですけど、自分が作った「頭のねじがはずれるおまじない」の言葉からとったんです。tupera tupera という名前で、だいたい2003年に活動を始めましたね。
2002年ってサイトに書いてありました。
じゃあ、2002年です。違う違う。tupera tupera の名前ではじめたのが2003年だったんですよ。それまで個人名でやってました。
個人名…ということだったんですね。失礼しました。
ダメ出しどんどんしてくれた方がうれしいです。個人的な部分まで。
大ファンですからね。tupera tupera、二人いるから、tuperaが2つになったいう情報もちゃんと入手しています。
ありがたいことです。そうこうするうちに絵本作らないの?って言われたわけです。僕は、絵本は作れないと思っていた。でも、こういう本だったら作れるかも!って思ったのが、これ『木がずらり』という本です。
絵本づくりのきっかけ『木がずらり』『魚がすいすい』
三鷹の奥に住んでいたんですけど、東八道路という道路沿いに木がいっぱいあって、夕暮れになると木がシルエットになって面白いんです。屏風として飾れるような絵本だったら作れるんじゃないかなと思って考えました。そして、こんもり、かっちり、きっちり、どっしりなど「り」がつく言葉をまとめました。言葉を読みながら、木と木にまつわる人の様子を楽しんで読み進めていくと季節が巡る作品です。インテリアになるような絵本なんです。最初は自主出版1000部から始めました。雑貨は、自分の手で作っていたわけなので、絵本も自分の手で作らなければいけない。ただ、どうやって作ったらいいかをわからないんです。だから、とりあえず、実家に電話しました。そして、印刷所の知り合いがいるか?って聞いたら、母の高校の時の同級生の服部さんの息子の親友の後藤さんが東京で印刷所に就職したらしいと。
(関係性が)遠いですね。
それで、後藤さんと新橋で待ち合わせして、飲みに行ったんですよ。すると後藤さんの印刷所は、車のポスターをよく扱う所で、絵本はまったくやっていなかったんですね。でも、後藤さんは「こういうのをやりたかった!」と言い出して。
お酒の勢いで?
うん。仕事の合間でやりますって言ってくれたので、「よし、じゃあやろう」となりました。それで印刷所に通いました。120万くらいかかりましたけど。
自腹ですか?
自腹で1000部作りました。当時家が狭かったので、それを家の隅っこに積むと、すごい山になるわけです。これは大変だと思って、すぐに湿気取りぞうさんをいっぱい買ってきました。さあ、これどうやって販売しようかなと思うのですが、この1000部は、全部自分で作ったから、とても大事なんですよ。1000人の気にいってくれる人に届けなければ意味がないと思って。そう簡単に売るか!という気持ちになったんですね。
売らないんですね。
売らない。「どうしても欲しい」と言われたら「しょうがないね」みたいな感じで出す。
上からな態度ですね(笑)
上からですよ。だって僕の子どもみたいなものですから。最終的には書店ではなくインテリアショップの5店舗くらいから始めて。
5店舗くらいじゃなくて、5店舗って書いてありました。
じゃ、5店舗です。それで店舗数は少し増やしましたが、半年で売り切りました。
すごいですね。
1900円の定価だったのですが、半年で売り切りましたね。自分達でもすごいと思いました。すると、ピエ・ブックスっていう出版社から出版したいという話がきたんです。ピエ・ブックスで当時インターンをしていた宮崎さんという女性が展覧会に来て、「私がちゃんとした編集者になったら、最初に tupera tupera の本を出したい。」と言ってくれたので、ハグしました。ハグはうそです。宮崎さんは、本当にピエ・ブックスに入り、『木がずらり』を作って出版してくれました。『魚がすいすい』も書き下ろして、二冊同時に出しました。
さらに、スリーブケースを付けて、値段を1600円にし、全国の書店で販売しました。1900円で少ない店舗数で1000部を半年で売り切ったので、「俺。もしかしてきちゃった?」と思っていたら、ぜんぜん売れないんですよ。やっぱり自分で梱包して、扱いたいってところに自分で持って行って「よろしくお願いします。」と言って渡して、たまにお店に顔だしたりして、ずっとその本のことだけに親身になって考えて、人に届くところまで最後まで面倒見ていたところがあって、そういう怨念みたいなものが籠ったのかもしれないですね。
いや、怨念じゃなくてそこは愛情。
愛情かな。その後、ピエ・ブックスで絶版になっちゃったので、今はブロンズ新社から出ているんです。さらに値段が下がって、1400円になったけどあまり売れないんですね。
今は売れてるんじゃないですか?
売れてないんじゃないんですかね。でも売れる売れないではないのでいいのです。僕達にとっては、ものすごく大切な本です。最初の本ですから、今まで出した本の中で特別な感情があるというか。ミュージャンのファーストアルバム的なね。僕はこの本で、本づくりを実験して、スタートしました。今と同じ気持ちで一冊づつ実験をしています。